烏有書林の本づくり
先日学生さんと話をしてて「烏有書林全点フェアをしてくれた奇特な書店員さんがいる」という話になった。で家に帰ってから当時(2019年8月)の資料を発掘して読んだところ、そのとき書いた文章がけっこうイケてるんじゃないか(自画自賛)、烏有書林の本づくりに対する考えというか態度についてとても分かりやすいものになってるんじゃないかと思えたので、転載してみます。
まずはその奇特な書店員・花本武さん(フェア当時は吉祥寺のブックス・ルーエ、現在は西荻窪の今野書店勤務)のフェア告知文。
「烏有書林、上田宙が厳選! ~私が作った本、私を作った本~」
出版社、烏有書林がつくる本に陶然とする文学愛好の士は多いはずです。文字、紙、印刷といったものにフェティシズムを抱く者にとっても極めて重要なメーカーです。
シリーズ日本語の醍醐味のラインナップをご覧ください。講談社文芸文庫のファンだけど烏有書林のことを知らない。そのような方、絶対に魅了されるはずです。
私は烏有書林の代表、上田宙という人間が気になるんです。どこか掴みどころがなく、のんびりしているようで、鋭いようなところがあり、なんだかよくわからない。
どのような読書体験がこの御仁に烏有書林を立ち上げさせたのか。個人的に知りたいことだったのもあって、フェアでの選書を依頼しました。
烏有書林の本を全点と、それらを形成したパーツとも言える20冊。
文学を愛し、紙の本に萌える方々、ご注目ください!
開催日時 2019年8月1日から8月31日
上記を受けての私の返信文。
「もう「掴みどころがない人」とは言わせない!」
私は和歌山県の南の果てから1時間ほど山に入った僻地で生まれ育ちました。もちろん書店はありません。本といえば学校の図書室と移動図書館。小学校(分校)の同級生は女の子と私の二人だけでした。
小学1年で最初に借りた本は、タイトルは覚えてませんが表紙に可愛いヒヨコのイラストがある絵本でした。「鶏の受精卵の中身は○週目まではこんな姿で魚類や人間と変わりなし」みたいな内容で、ワケが分からんから教えてと母に見せると「あんたには早すぎる」の一言で片づけられました。次に借りたのは『ながいながいペンギンの話』。長かったことしか覚えてません。
なんてことを書いてると、また「掴みどころがない人」なんて言われかねないので話を戻します。
子供のころの私にとって、本という存在は、テレビやラジオと同様、山と川しかない自分の周りの現実と、どこか遠い場所にある“ふつうの社会”とを結ぶ「扉」だったように思います。本を読んでいる間だけは、私もシティーボーイや英国紳士、ズッコケ三人組やシャーロック・ホームズになれるんですから。
僻地というちょっと特殊な環境で育ったからか、ずっと、“ふつうの日本人”が私の憧れでした。というか、高校に通うため家を出て街に下宿して以降、ふつうの日本人に成りすますのが私の目標でした。私が目指したのは、近所にスーパーやゲーセンや本屋さんがある街で育ち、同性の同級生がたくさんいて、みんなでコミック雑誌の発売日を心待ちにするような子供時代を過ごしてきた、ふつうの日本人です。そんな思い出なんてないのに。
今でも、ギミックのないふつうの形の本にこだわってしまうのは、これが原因かもしれません。
烏有書林の本には、凝った仕掛けはありません。紙の本は、そのままで十分優れている、と思っているからです。これからも私は、ふつうの本を作りつづけたいと思っています。
烏有書林 上田宙
当時のフェアの様子はこちら。
吉祥寺ブックス・ルーエで烏有書林&上田選書フェア!
すべての本につけた一言コメントはこちら。(当時品切だった宇能鴻一郎さんの「鯨神」は、現在『姫君を喰う話(新潮文庫)』で読めます)
烏有本フェア、テコ入れ策その2
あと、「ふつうの本をつくりたい」という私の考えを、造本を見ただけで見抜いてしまった鈴木一誌さんの驚愕の書評はこちら。紙の本を愛する方、必読です。
『図書新聞』の書評です!
宇能鴻一郎『甘美な牢獄』
2022年8月発売、「シリーズ 日本語の醍醐味」の新刊を紹介します。

甘美な牢獄 ──シリーズ 日本語の醍醐味(10)
宇能鴻一郎「人間である最後の夜に、わたしはこの手紙を書きます。」(「甘美な牢獄」より)
やむにやまれず暗い官能の洞窟へおちこんでいった者たちの、圧倒的なエロスの世界が、いま甦る。稀代の物語作家が描く「この世の地獄」は、煌びやかで残酷な夢想のユートピアであった。芥川賞を受賞して華々しく文壇に登場した宇能鴻一郎は、1960年代から70年代前半にかけて、濃密な文体で性の深淵をえぐる作品集を40冊余り刊行した。しかし先鋭的すぎたためか当時の文壇ではほとんど無視され、著作も軒並み絶版になっていった。それから半世紀以上を経て、いまようやく宇能文学への関心が高まっている。恐怖とエロティシズムによって性の根源に迫った真正の文学世界は、いま読んでも比類なく新鮮で、麻薬的・原初的な文章の力に圧倒されるだろう。むしろ現代でこそ受け入れられる性質の作品群と思われる。
「この世の地獄を描いて宇能氏の右に出るものはあるまい」と筒井康隆に絶讃された「甘美な牢獄」、思春期の青い性が清冽な「光と風と恋」、満洲で世界の汚辱にあらがう少年の復讐譚「野性の蛇」、谷崎や乱歩の後継となるユートピア奇談「殉教未遂」「狂宴」「神々しき娼婦」、不良少年の優しさに満ちた「雪女の贈り物」「官能旅行」の全8篇を収録。※七北数人氏を監修者に迎えた「シリーズ 日本語の醍醐味」は、“ハードカバーでゆったり、じっくり味わって読みたい日本文学”をコンセプトに、手に汗握るストーリーではなく、密度の濃い文章、描写力で読ませる作品、言葉自体の力を感じさせる作品を集成してゆきます。
2022年8月25日発行(8月10日ごろ発売予定) 四六判・上製 304ページ
定価=本体2,400円+税 ISBN978-4-904596-13-5
【目次】
光と風と恋
雪女の贈り物
野性の蛇(*)
殉教未遂
狂宴
甘美な牢獄
官能旅行
神々しき娼婦解説/七北数人
記念すべきシリーズ10冊目は、念願の宇能鴻一郎氏。シリーズ監修者の七北数人氏は解説の中でこう書いています。
そんな記念の一冊が念願の宇能鴻一郎篇となり、編者にとってこれ以上の喜びはない。前回の太宰治と並び、世界無比の二大文豪だと私は思っている。
マジメな顔でそう力説すると、結構マジメに笑われる。太宰でさえ昔は大っぴらに好きと言えない空気があったが、宇能鴻一郎といえば一九七〇年代から八〇年代にかけて一世を風靡した超有名ポルノ作家だったからだ。
恥ずかしながら私も最初の印象は、“週刊誌や夕刊でよく見かけるポルノ作家”でした。ただし、『鯨神』を読むまでは。
大学時代、「あたし〜なんです」を数冊読んだ後、ふと手に取った中公文庫の『鯨神』を読みはじめて、その精緻な文章、作品構成にぶっ飛んだ。とくに後半からの……ネタバレになりかねないので止めときます。この『鯨神』はずっと品切でしたが、今は新潮文庫『姫君を喰う話 宇能鴻一郎傑作短編集』にも収録されているので、ぜひそちらで読んでください。「鯨神」をはじめ、表題作の「姫君を喰う話」ほか、すんごい作品が並んでいます。
なんて他社本の宣伝をしている場合ではなかった。うちの本だ、うちの。烏有本にも凄いのが並んでいます。というか、宇能氏の作品は、どれもこれも凄いのばっかりなんですよ。
七北氏は表題作「甘美な牢獄」について、
私は一作で、すでに宇能文学のとりこになっていた。「この世の地獄」をもっともっと味わいたくて、宇能鴻一郎の初期作品を片端から、むさぼるように読んだ。どの作品にも、やむにやまれず暗い官能の洞窟へおちこんでいった者たちの姿が描きこんであった。彼らこそ真に「生きている」人間だ、という一貫した作者の主張がきこえ、人間という存在の底知れぬ奇怪さがみえてくる。
また他にも、青春小説「光と風と恋」、少年時代を過ごした満洲を舞台とする「雪女の贈り物」「野性の蛇」など、
性は巨大な底なし沼のように、少年を引きずりこむ。とろけるような甘さと相反する強烈な苦み、理由のない破壊衝動、それら若い青春のすべてが宇能作品にはギッシリと、しかし繊細に埋めこまれている。
と。
いやあ、本当に、荒々しさと繊細さを併せ持った、稀有な作品ばかりなんです。
本書が並ぶお店は、来週あたりから随時烏有書林の本があるお店(リアル&ネット)に反映させていきますので、ご興味のある方はぜひチェックしてみてください。
*作品名に誤植がありました。目次と本文に「野生の蛇」とありますが、正しくは「野性の蛇」です。大変申し訳ございません。著者と読者の皆様にお詫び申し上げます。
歪んだ書物愛と憑き物落とし
6月の新刊、太宰治『黄金風景』の書店さんからの申し込みFaxの一つに、太宰の「『女生徒』がだいすきです!」というコメントが付されていた。それを見て思い出したことがあったので、備忘録として書いておくことに。
以前関わっていた雑誌で、アートディレクターの葛西薫さんを取材した時のことだ。(その時の記事は『印刷雑誌』2006年11月号掲載「多くの人々に私信を届ける」です。)
と、その前に、当時の私のことを書いておく。
たとえば書店店頭で好きな作家の新刊が20冊平積みになっていたとする。当時の私は、その20冊すべてを手にとってチェックしていた。まったく同じ本に見えても、やはり一つ一つに個性がある。ぱっと見の傷や汚れはもちろん、本文の各ページが綺麗に印刷されているか、1冊を通して版面の黒みは一定か、などを順に見ていく。次に4色刷りのジャケットや帯などに見当ズレはないか、各色の見当をはじめ、背文字がビシッとセンターに来ているかどうか等々、細かい部分をチェック。そして最後に、本体、ジャケット、帯、それぞれでベストなものを組み合わせてからレジに持っていくのだ。いま思えば、ちょっと頭おかしいよね、当時の私。
閑話休題、葛西薫さん取材時の話である。
事前に用意していた質問はすべて聞き終え、本や文字や印刷についての雑談をしていたときのこと。葛西さんはご自身が装丁を手がけた『女生徒』(太宰治著、佐内正史写真。作品社、2000年)を手にとられた。その『女生徒』は帯の背文字がセンターから大胆にずれていて、私はそれが取材の途中からずっと気になっていたのだ。プロの仕事として、そのズレ具合はちょっとありえないでしょ、と。
そんな『女生徒』を葛西さんは手にとり、「ほら」と帯の背文字を指さした。私はてっきり「ありえない」という言葉が続くものだと思ったのだが、葛西さんがおっしゃったのはこうだった。
「ほら、こんな見当ズレっていいよね。人間らしくて。」
その瞬間、自分の目から鱗が落ちるのがはっきりわかった。今でも覚えている。本当にポロッと音が聞こえた。
こんな、私の中に巣食っていた「歪んだ書物愛」という憑き物をたった一言で落としてくれた葛西さんのことを、私は勝手に恩人だと思っている。(その後、高岡重蔵さんの思い出の会など、葛西さんとは何度かご一緒する機会があり、その度に今度こそはお礼を言わねばと思うのだが、なんだか照れくさくて、まだご本人には直接言えてない……)
その日以降、私は書店で何冊平積みになっていようと、一番上の1冊を手にとってレジに向かうことにしている。
太宰治『黄金風景』

黄金風景 ──シリーズ 日本語の醍醐味(9)
太宰治
「生きていることへの感謝の念でいっぱいの小説こそ、不滅のものを持っている。」(「感謝の文学」より)
何度も自殺未遂を繰り返した太宰は、底抜けに人を愛する、限りなく優しい男だった。心温まる話と、めくるめく言語マジック。愛とユーモアに満ちた清新な作品集。全23篇。坂口安吾、織田作之助らとともに無頼派と呼ばれた太宰治の文学は、いまでも他の追随を許さぬ独自の輝きを放ち、愛読者は世界中に広がり続けている。
陋巷のマリアたちに捧げられた「黄金風景」「新樹の言葉」「俗天使」「母」、ノスタルジックな街と人が哀切に立ち現れる「老ハイデルベルヒ」「帰去来」、エロティックで愉快で少し不気味な「陰火」「女人訓戒」「清貧譚」、巧みな話術で読者を翻弄する「懶惰の歌留多」「春の盗賊」、繊細な感性で心の破片をコラージュした「葉」「創生記」「HUMAN LOST」など、ヴァラエティに富む太宰の文学世界を精選。思いがけないほど温かで、人間を愛してやまない太宰の本当の姿がここにある。※七北数人氏を監修者に迎えた「シリーズ 日本語の醍醐味」は、“ハードカバーでゆったり、じっくり味わって読みたい日本文学”をコンセプトに、手に汗握るストーリーではなく、密度の濃い文章、描写力で読ませる作品、言葉自体の力を感じさせる作品を集成してゆきます。
2021年6月19日発行(6月15日ごろ発売予定) 四六判・上製 352ページ
定価=本体2,400円+税 ISBN978-4-904596-12-8
【目次】
葉
虚栄の市
敗北の歌
放心について
感謝の文学
陰火
走ラヌ名馬
創生記
音に就いて
HUMAN LOST
黄金風景
懶惰の歌留多
新樹の言葉
市井喧争
俗天使
女人訓戒
春の盗賊
老ハイデルベルヒ
清貧譚
帰去来
一つの約束
親という二字
母解説/七北数人
太宰治。
日本人なら知らない人はいないほどの作家ですよね。「晩年」「斜陽」「人間失格」……今も読み継がれる作品を挙げていくと、枚挙にいとまがありません。
そして、この醍醐味シリーズ第一弾『アンゴウ』の著者、坂口安吾の盟友でもあります。
シリーズ監修者・七北数人氏の本書解説にはこうあります。
新潟で安吾について講演をした折、車椅子の若い女性が来場されていて、彼女は大事そうに『アンゴウ』を抱え持っていた。この本に出逢えたおかげで、死を思いとどまることができた、と彼女は言う。私は全身に鳥肌が立つほど感動した。ああ本当にこの本を作ってよかったと、大きな意義を感じた。
彼女のおかげで、本シリーズに太宰が入ることになった。太宰の本も無数に出ているが、私にとって心の糧であり続けた太宰作品の、その大切な部分を伝えられるような作品集を作りたい。これを読んで死ぬのをやめてくれる人がいるといい。そういう気持ちで本書を編んだので、同じ無頼派という以上に、安吾篇と対になる作品集になっていると思う。
(中略)
太宰には埋もれた作品なんてないと言ってもいいぐらい、どの作もよく読まれていると思う。そんな中でも作品集への収録が比較的少なく、蔭の大傑作と言いたいような作品を厳選してみたら、おもに二つの傾向の作品群が集まった。
心温まる話と、言葉の魔術師と呼ぶにふさわしい作品と。
新潟でこんなことがあったなんて、私もこの解説を読むまで知りませんでした。いやあ、本当に、『アンゴウ』を出して、よかった。本当によかった。
そして、この『黄金風景』も、いま生きるのに苦しい人、悩んでいる人たちに、ぜひ読んでもらいたい。
夜の次には、朝が来る。(「懶惰の歌留多」より)
そんな希望が湧いてくる一冊です。
本書が並ぶお店は、来週あたりから随時烏有書林の本があるお店(リアル&ネット)に反映させていきますので、ご興味のある方はぜひチェックしてみてください。
〈余談〉
最初にこの本をつくり始めたとき、ビブリア古書堂ではありませんが、『晩年』の初版本を勝手にイメージしながら書体などを決めていきました。で、途中でもしやと思って国会図書館のサイトを覗いてみたら『晩年』の初版本がデジタルで公開されており、そこで使われていた書体がたまたま私が選んだのとそっくりで息を吞みました。まあ全く同じではありませんし、そもそも活版印刷の時代ですから、著者や編集者がわざわざ書体を選ぶようなことはまずなかったでしょうが、不思議な縁みたいなものを感じました。
追記:比較画像↓です。かなりそっくりじゃないですか!?

砂子屋書房版『晩年』初版(昭11。左)と烏有本(右)
ベタ組について考えてみた
以下の文章は、あくまで私の感覚を元にしたベタ組についてのメモで、特に根拠はありません。私の想像&妄想です。なので、誰かに検証してもらえれば、もしくはすでに検証したものが公表されているなら、教えていただければ幸いです。
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少し前に気になったツイートがあり、本文のベタ組についていろいろ考えてみた。これから仕事が忙しくなりそうなので、今のうちにつらつら考えたことをざっくりまとめておくことにする。
件のツイートを(勝手に補足しながら)要約すると、「タイトルや見出しなど、文字の形に合わせて細かく字間を調整したプロポーショナル組は美しいが、本文ではそんな手間ひまは掛けられないので仕方なくベタで組んでいる。なので本文では、「っゃゅょ」などの小書きの仮名、縦組中の「へ」や横組中の「く」などの前後が不自然に空いてしまう。要は、美しいプロポーショナル組が理想であり、ベタ組中心の本文は妥協の産物である」みたいな感じだった。
これは、「組版」というものを意識したとき、誰しも一度は考えることじゃないだろうか。むかし私も同じようなことを考えたことがあったが、今はこのような、「プロポーショナル組が理想、ベタ組は妥協」はちょっと違うんじゃないかと思っている。
私の考えをざっくり書くと、「本文は読みやすさ優先でベタ組、見出しは文字数が少ないので、読みやすさより見た目の美しさ優先でプロポーショナル組」みたいな感じだ。(ここで言うベタ組は、文字が等ピッチで並んでいる組版、の意味です。禁則処理等々の影響で、すべての行がぴったりベタで並ぶわけじゃないので。)
あくまで私の場合だが、プロポーショナル組の本文を読んでいると、読むスピードが早くなったり遅くなったりして、船酔いのような気持ち悪さを感じてしまう。まだ1〜2ページ程度の短文なら我慢できるが、長文になると、きつい。
(kamisibai.pdfの23ページに、むかし見かけた極端な例をあげているので、できれば実際に読んで感じてみてください。)
まあ、面倒な説明なしでも、実際に自分が言葉を発しているときや文字を読んでいるときの感覚を思い出してもらえれば、すぐに察しはつくと思う。
たとえば普段の会話のとき、気分のノリによってテンポは変わるだろうが、おおむね1音1音は等ピッチで話しているのではないだろうか。これは、いってみればベタ組でしゃべっているようなものだ。
話すにせよ読むにせよ、「へ」の前後だけ早口でしゃべる人はいないだろうし、縦組と横組で「へ」と「く」の前後をスピードを変えて読む人はいないだろう。
ただ、1音=仮名1字を1拍と考えたとき、拗促音などはちょっと微妙になってくる。「っ」や「ー」は1拍と考えて差し支えないが、「ゃゅょ」などはプラス半拍といったところか。ただ、人間の脳の処理能力は優秀だし、また慣れもあって、字数と音の少々のズレなどものともせず、スムーズに読み進めることができる。
これに表意文字の漢字が入ってくると、脳ではもっとややこしい処理が必要になる。漢字1文字で2〜4音なんてのもあり、読書時の目の動きはそこでどうしても停滞してしまうわけだが、漢字の場合は音というより形から意味をとりながら読むので、リズムの違いはあまり気にならない(漢字が多めだと古めかしく堅苦しい感じがし、リズムの分断も増える分、そんな表記に慣れていないと読むスピードがぎこちなくなるかもしれない。この辺りの感覚は、読む人の年齢・読書経験によってかなり差があるとは思うが)。逆に仮名だけだと音から意味を汲み取る時間がかかるので、これもリズムよく読むのは難しい。やはり、適度に漢字と仮名が出てくる方が読みやすい。
漢字と仮名の役割分担としては、漢字で意味を正確に(同音異義語などの混乱を避けて)伝え、仮名でリズムを整える、ということではないだろうか。なので、仮名の部分が等ピッチで並んでいないと、読むときの目の動きと目に入る文字のピッチが微妙にずれて、船酔いのような感覚を感じるのではないかと思う。(まあこれは、ベタ組の文章を毎日何十年も読み続けてきた私の感覚だから、デジタルネイティブ世代にも当てはまるかどうかはわからない。)
いずれにせよ、やはり本文組では、文字の形を見る、というより、文章の声に耳を澄ます、という感覚になる。
短文の見出しが「見せる組版」なら、本文組は「読んでいただく組版」、大袈裟にいえば「奉仕の組版」かな。それを見出しのように組んでしまったら、下手をすると自我の押し付けに、やたらうるさい組版になりかねない。
「おそらく私は、普段の読書のときから全角ベタ組のペースで文字を読んでいるんだろうな」と思い当たったきっかけは、十数年前に担当した書籍のゲラがなぜかプロポーショナルで組まれてきて、それを読んでいたときのことだ。縦組で「一つ」などの字間が極端に詰まっているような組み方で、とにかく気持ち悪かったし、字並びによっては文意もとりにくかった。
たとえば、縦組で「一二」などと組んだとき、「一」の前後は少なくとも「二」の1画目と2画目の間隔以上に空けないと、「一二」なのか「三」なのかがわかりにくくて読むリズムが止まってしまう。これは私が、知らず知らずのうちに、正方形の仮想ボディを感じながら文字を読んでいるからなのだと思った。先にあげたPDFだと、21ページにそのあたりのことを書いている。要は、四角四面のベタ組じゃないにしろ、「一」が「一」であるとわかるためには、前後にある程度のアキ、仮想ボディなりサイドベアリングなりが必要だということ。とにかく漢字は字種が多いから、一か二か三か、十一か土か士か、必要最小限のアキがないとわからない。たとえ本文をプロポーショナルで組むにしても、この必要最小限のアキを意識すると、それはベタ組に近づいていくことになる。
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あまり長々と書いても仕方がないので、ひとまずこの辺で止めます。箇条書きを適当につなげただけの断片的な文章なので、読みにくかったと思います。すみません。
私はとにかく勉強嫌いで感覚優先の人間だから、可読性についての知識は管見過ぎてかなり怪しいです。(古くは今井直一『書物と活字』(印刷学会出版部)あたりから、最近だと『出版研究』(日本出版学会)で可読性についての論文をいくつか読んだぐらい……)ここで書いたことが合っているのかどうか、自分でも正直わかりません。
なので、面白い研究成果等があれば、ぜひ教えてください。
本づくり協会・印刷部会 第5回ミーティングのお知らせ
本づくり協会メールマガジンから転載します。
ご興味ある方、ぜひご参加を!
(第4回の様子はこちら→本づくり協会 facebook)
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印刷部会第5回ミーティングを開催します。
担当理事の高岡昌生さんと烏有書林の上田宙さんを交えた書籍についての勉強会です。
また、参加者のみなさまには自慢の1冊、お気に入りの1冊をご持参いただき、その魅力を語り合っていただきます。
開催日時●2020年2月2日 15:00~17:00
※開場、受付開始は14:45より
会場●新宿支部印刷会館(東京都新宿区)
http://www.shinjyuku.join-us.jp/07access/07access.html
参加費●本づくり協会会員:1000円、非会員:1200円
参加申込●協会ウェブサイトの問い合わせフォーム
https://www.honzukuri.org/contact/
からお申し込みいただくか、協会メールアドレス
honzukuri●gmail.com(●を@に)
からお申し込みください。
なお、お名前、連絡先(当日、ご連絡可能な携帯電話番号など)を必ず明記してお申し込みください。
※当日の飛び入り参加も歓迎いたします。
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