まもなく電子書籍元年が終わる

 まもなく、何度目かの電子書籍元年が終わろうとしています。
 多分、昨日書いたように、「テキストさえ読めればいい」という人は電子書籍にどんどん流れていくでしょうし、あと10年もすれば新刊点数の半分以上が同時に電子書籍でも発売される時代がくるでしょう。
 電子書籍について考えていることを、上手くまとまるかどうかはわかりませんが、つらつらと書いてみます。


 そもそも文字は、生まれたときからデジタルなものだったんだと思います。
 たとえば絵画なんかは、オリジナルが一つあってそれ以外はすべて複製ですが、文字が印刷された書籍は、それ自体がすでに複製であり、同時にオリジナルでもある不思議な物体ですよね。誰も手書き原稿は本物で活字は偽物とか、四六判は本物で文庫本は偽物だなんて思いません。なんかややこしいな。簡単に言うと、漱石の『坊っちゃん』は、菊判でも四六判でも、文庫本でも豆本でも『坊っちゃん』は『坊っちゃん』であり、文字でできた作品は器を変えても置き換え可能なものだ、みたいな感じです。
 まあ厳密に言えば違うものなんでしょうけど。音楽みたいなものですね。同じ譜面でも演奏者が変われば違うものになるように、同じテキストでも書体や判型が変われば違うものになる。
 音楽はあっという間にデジタルデータで流通するようになったけど、それと比べて本がこんなに遅れている原因は何か? そんなところに、紙の本の魅力の秘密、生き残っていく可能性があるのかもしれない。だから、電子書籍が普及すればするほど、紙の本の魅力が際立ってくると思う。そういう意味では、早く電子書籍が普及してほしいなんて思うことも。


 電子書籍に対する考えというか、態度を、いまだに決めきれていない部分が私の中にあります。烏有書林の本に挟んである栞を見て、私がアンチ電子書籍の人だと思う方もいるようですし、実際そう思われても不思議じゃない文言ですが、別に電子書籍を敵視している訳ではないです。たしかに「電子書籍」という呼び方には抵抗がありますが。
 私にとって書籍、本というのは、テキストや写真、図版などを印刷したものを綴じ、表紙で包んだパッケージ全体を指すもので、いま「電子書籍」と言われているものは、私にとっては単なる「デジタルデータ」で、本とは思っていません。
 ディスプレイに映し出されたページをめくると「パラッ」と音が鳴るのを見たときには、正直「アホじゃないか」と思いました。
 なんか出版界全体が勘違いしているように思います。「電子書籍」なんて呼ぶから「パラッ」なんてことになるんであって、これは単なる「電子データ」だと割り切ってしまえば、もっとデバイスにふさわしいコンテンツを作れるようになるんじゃないかな。もしくは「テキストさえ読めればいい」路線で突っ走るか。これが一番手っ取り早いですよね。
 かくいう私も、10年前、ほんの少しの期間でしたが、ダウンロード販売用の電子コンテンツを作っていたことがあります。当時はまだISDNの時代で、コンテンツは少しでも容量を軽く、フォントのエンベットなんてもってのほか、みたいな時代でした。PDF(1.3ぐらいだったかな?)に音声を埋め込んで、英語の教材を試作したりもしました。それがなんか、詰まらなかったんですよね。だからまったく逆の方向に進むことにしたんです。デジタルコンテンツをいくら作っても、「本を作った!」という達成感がないんですよ。リアルな本だと、例えば『「印刷雑誌」とその時代』という本を作ったときには、「印刷人の思いが一杯詰まった、800ページの本ができた!」という編集者としての達成感が確かにありました。刊行前の半年はほとんど睡眠時間3〜4時間という毎日で、義母が亡くなる前日も薄暗い病室で徹夜で引き合わせ校正をして(というか、あのとき目の前にゲラがなかったら、気が狂ってしまうくらい過酷な夜だった)、でも、だからこそ、本ができたときには、言葉にできないぐらいの喜びがありました。まあ、内容に多々不満は残るにしても、あの本が日本出版学会から特別賞をもらえたのは、天国の義母が力を貸してくれたおかげだろうと、今でも本気で思っています。
 でも、デジタルコンテンツの場合は、制作に費やす苦労はほとんど同じなのに、その見返りがまったく違う。だいたい本作っても儲からないんだから、見返りは自己満足の達成感とか充足感ぐらいしかないのに、デジタルデータにはそれがないんですよね。


 なんかえらい感情的な文章になってしまったけど、今になって、たとえデジタルコンテンツであっても「100万部ダウンロードされた!」なんてことになったら達成感がえられるかも、なんて考えが頭をよぎった。そもそも「だいたい本作っても儲からない」という認識が間違いなのかもしれない。でも私の辞書のどこを見ても「ベストセラー」という文字は見つからないな。
 もともと天邪鬼な性格なもんで、ベストセラーはまず読まないし、作るにしても、読んだ後で役に立ちそうな本、年収が10倍になったり頭が急に良くなったりするような本は作りたくないんですよね。なんか詐欺みたいな感じがして嫌なんです。
 それに、読んですぐに役に立つ本とか、あと、必要なキーワードの前後だけ読めればいい本とかは、そのうちほとんど電子書籍になってしまうと思うし、なっていいとも思う。
 読むことで少し心が動いて、読み終わった後5分くらい余韻にひたってもらえるような本が作れれば、もう十分。で、書体、組版、レイアウト、そして本文用紙、見返し、表紙、製本、等々、これらが一体となって、内容に合った佇まいを演出できて、5分の余韻が10分に延びてくれれば本望って感じでしょうか。それにはジャケットとか帯とかも重要なんだろうけど、なんか、いつかなくなってしまうオマケだという感覚が強くて、ついジャケットや帯にお金かけるぐらいなら表紙や中身にってなってしまう。とはいえ、やっぱ本は売れてなんぼ、読まれてなんぼだからなあ。


 車で1時間走らないと本屋も図書館もないような過疎地で育ち、学校の小さな図書室とたまにやってくる移動図書館で本を借りるしかなかった身としては、電子書籍にすることによって届けられる人たちがいるかも、と考えることもある。ちょうど30数年前の私のように、ひと月後にやってくる移動図書館ドリトル先生の次の本を借りるのを心待ちにしているような子供たちだ。紙の本への愛着が強すぎる自分と、たとえ電子書籍という形であっても、多くの、過疎地の子供たちへも本を届けたいと思う自分の間で、いつも揺れ動いてしまう。私にとってのその落としどころが、商業出版なんだと思う。ちまちまと独りでやっていながらも、リトルプレスではなくて、注文さえすれば全国どこでも、最寄りの書店に送料なしで本が届くという商業出版へのこだわりは、30年前の私に向けた言い訳でもあり、免罪符なのかもしれない。


『印刷雑誌』とその時代―実況・印刷の近現代史

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ドリトル先生アフリカゆき (ドリトル先生物語全集 (1))

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